breast cancer | ucacoceramics
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3月9日

3月9日 私の誕生日は3月10日です。 1日違いのこの日が曲名になっているレミオロメンの歌を知ったのは2019年の1月末のことでした。 あの日教えてもらったことを、つい最近ストリーミングサービスのおススメでこの曲が上がって来て思い出し、近ごろまた聴いています。 2019年のその日は、ちょっとした仕事の相談の様な打ち合わせの様な感じで知人と久しぶりの食事をしていました。 2018年に私が病気をして、一切飲みに行かなくなったのもあり、その日はものすごく久しぶりの会食。 話の流れで私の誕生日がいつか?と聞かれ3月だと言ったらこの曲を教えてくれたのです。 「でも、私の誕生日は10日だよ」とその時も言った気がするし、お決まりのネタで「松田聖子と同じ誕生日!」とも言っていたと思います。 それはどっちでも良いから!的な感じで諭されて😅 歌詞もめちゃくちゃ良い曲だからちゃんと聴いてみて!と言われ帰宅してから聞いたことを思い出しました。 良い曲だなぁ…と思って歌詞を見ながら歌いだしたのですが、色々なことを自分と重ねてしまい涙が溢れて歌えませんでした… 2018年、2019年、パッと見の感じでは私は普通に見えていたかもしれないけど、実際にはとてもしんどかったです。 もちろん少しずつ良くなっていたのだけど何かしらのトラブルを抱えていました。(副作用なんかもあったので) 2018年は放射線治療の怠さが抜けないままどんどんと体内に毒素を溜め込んで行ってました。(2019年は薬の副作用で解毒出来なくなっていました) 大好きだったお酒も受け付けなくなりビールが飲めなくなりました。 ほぼアルコールを飲まなくなっていたのが2018年です。 身体は辛かったけれど、一通りの治療を終えてあとは回復して行くだけだ!と思うとしんどいながらもやりたいことを始められると思いワクワクもし始めた頃です。 だけど、以前の自分の様には動けなくて、やりたい気持ちはあるのに身体がついてこなくてすぐにグッタリしていました。 1日外に出てたくさんの人に会うと、楽しいのだけどそのあとは疲れて2日ほど寝込んでいる様なことも多くありました。 2018年は乳癌が発覚してそれまでの生活が目まぐるしく変化した年です。 とても苦しい年だったのだけれど、あんなに辛かったのだけれど、私はたくさんの周りの人たちの優しさに触れ、家族と離れて暮らしていても私は1人じゃないんだと常に感じられた幸せな年でもあったと思っています。 そんな気持ちだったからこの曲の歌詞が刺さり過ぎて歌えなかったのだと思います… 2018年、本当に余裕が無かったです。 しんどいことを人に知られたくなくて平気に見せるのに必死でした。 2019年も少しマシとはいえ同じ様なものでした。 2020年頃からやっと以前の様に動けることも増えてきました。 それでも、未だに半年に一度の定期検査の時期は不安になります。 いつになったら検査にビクつかなくなるんだろう…と毎回思うけど… (今は普段はほぼ病気のことも忘れているくらい元気です) ただ、自分の体に何かしらの異変を感じると急に不安になりネットで検索してしまって怖くて眠れなくなる日も未だにあります。 悲観的なわけではなく、自分がいつどこでどうなるかなんてわからないのだから、後悔しない様に生きたいとは強く思っています。 どんなことも、後悔しない選択をしたい。 流れに乗って任せたり委ねるのもひとつの選択だと思っています。 我を通すということでは無く、自分のココロにはいつも素直でありたいです。 明日のお昼の空の白いお月様も綺麗だと良いなぁ… 《3月9日》良い曲ですね。 改めて思いました。...

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12月 03 2019

【モダン金継ぎワークショップ】楽しく開催させていただきました。

先日11月30日は【松の杜くげぬま】で今年2回目の【モダン金継ぎワークショップ】でした。 参加者の皆さまが笑顔で直した器を抱えて帰って行かれる姿を見て最後のご挨拶が出来ることがすごく嬉しいです。 王道の美しい金継ぎを施す方、遊び心満載でデザイン性を持たせる方もいらっしゃる個性溢れる楽しい2時間でした。 私は管理人であるりささんのお母さまからお預かりしたという欠けた器を修繕させていただきました。 器の色がベージュ系なので金彩だとあまり目立たないからあえて赤に。 このパンチの効いている感じが好きです。 金彩も勿論好きだけど、器によっては金銀以外の色物での表現も好き。 器の傷をどうやって引き立たせるのか? わからないように隠しても元通りには戻せない… だったらその傷をどうやってその器の持ち味として生かし、蘇らせるのか? そんなことを考えながら行うところが金継ぎを好きな理由のひとつでもあります。 つるんとした綺麗な器も勿論好きなのだけれど、好きだからこそ使い込んでいてたくさん欠けたりヒビが入った器への愛しさはひとしおです。 それらの修繕後の姿はとても力強くて美しく“蘇るってとても素敵”だといつも思わせてくれます。 金継ぎから学ぶことは多く《RE》《reborn》を強く感じるとても前向きになれる作業でもあります。 いくらでも生まれ変われる。 傷は勲章。 そんな風に思います。 元々は自分の作っている器の欠けを直す為に始めた金継ぎ。 漆での本金継ぎだと敷居が高くて…とおっしゃる方も多く、この様なカタチで皆さんと一緒に修繕してまた使うという金継ぎの1stステップの時間を共有出来るのはありがたいことだと思っています。 昨年、闘病治療中に放射線の影響なのか?免疫力がガクンと下がってしまい漆にかぶれてしまってからは怖くて本金継ぎでの修繕が出来なくなってしまっていたのだけれど、現在ワークショップで行わせていただいているモダン金継ぎ(簡易金継ぎ)ならかぶれる心配も無くて心置きなく作業が出来るので最近は必然的にこちらの方法を選ぶことが多いです。 今、免疫力を高める為に日々の生活も見直しているので、また自分の免疫力が戻ったときには本金継ぎで器の修繕をしたいと思っています。 モダン金継ぎのワークショップからは《RE》の前身して行くパワーを得ることが出来て自分自身もとても楽しいので定期的に開催したいと思っています。 くげぬまでは少し暖かくなった春ごろにまた開催かな?なんてりささんとも話していました。 来年は逗子・葉山界隈でも開催出来ればと思っています。...

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8月 25 2019

座右の銘って?

座右の銘 そんな大それた言い方しちゃうとハードルが上がってしまうのだけど、座右の銘とか生きていく上で大切にしている自分なりの指針みたいなものって尋ねられるまでちゃんと意識したり言葉にしてこなかったなぁって思います。     私の座右の銘は「一生笑って暮らすこと」コレに尽きるのですが、そんなんで良いの?って感じだったりもします。でもまぁ、コレが1番しっくり来るので聞かれた時はこう答えるようにしています。笑     数年前にお取引先さんから「田中さんの座右の銘は何ですか?」と聞かれた時に(そんなの初めて聞かれたのだけどその後何人かの人に同じ質問をされる事になり、この業界の人たちはそういう論議をするのが好きなんだなぁ。頭良い人多いもんなぁ。なんて思いました。笑)めちゃくちゃ困ったのを覚えています。 「そんなの考えた事もないし別に無いかなぁ…」なんて言って。笑 そしたら「いや、じゃあどんな風にしたいとか居たいとか無いですか?」って尋ねられて「それならあります!」と答えたのが「一生笑って暮らしたい」でした。そしたらその方からは「いや、それ言ったらみんなそうですよ!もっとなんか無いんですか?」と言われたのだけどそれ以上はないです。今も。笑     ただ、コレは20歳の頃の自分が掲げた人生の目標でずっと変わらないでいる事だから、最近では恥ずかしいとは思わずに座右の銘ってことで言ってしまってます。笑 『この人、もしかしてアホなのかな?』って思われてそうだけど。笑 でも、別に笑って暮らしたいってのは楽したいって事でも嫌なことから逃げたいってわけでも無いんです。 むしろ逆かもしれない。 “ずっと笑っていられる自分ってどんな自分?”それを自分自身に問うてみたら自ずと答えは出ます。 ・笑っているためには努力が必要。 だけどテンパらないでいられる様に余裕も必要。 ・笑っているためには周りへの配慮や優しさが必要。 だけど人に優しく出来ない時は自分に余裕が無いときだから笑ってられなくなる。 ・笑っているためには自分を信じる強い心が必要。自分を信じられないと周りの人の事も信じられなくなるから。 だから自分を信じられなくなってしまう様な環境には長居するべきじゃ無い。 たとえそこに代え難くやりがいがある仕事なんかがあるとしても。 ・笑っているためには諦めない気持ちが必要。諦めてしまったらその先には進んで行けないから。 ・笑っているためには持続力も必要。 だけどそれを頑張ってるって思わないで居られる心持ちが1番大切でリラックスしていられる事がキモだったりする。   ずっと笑っていたいから自分をちゃんと大切にして、周りの大好きな人たちの事も大切にしていたい。 ただそれだけのシンプルな事だけど、心が少しでも澱んでいるとそれがナチュラルには出来なくなってしまう。   日々の生活の中で色々な目標はもちろんあるけど、それは最終到達点としての目標では無くて全て通過点でしかない。 いくら願いが叶っても、自分が笑っていられなかったなら、それは人生においては大した意味を持たないコトだって思ってる。 笑っていられる自分でありたい。 無理して強がって笑うんじゃ無くて、穏かに笑っていたい。 人を笑顔に出来る人って老若男女問わず憧れる。 向日葵の様な人ってホントに素敵ですごく惹かれる。 素敵だなぁって思うし、疲れていたり心配事がある時はそういう人に会いたくなる。   明日は定期健診。 毎回のことながら気持ちがちょっと落ち着かない。 健診の前1週間くらいは未だにどうしても気持ちがざわつく。 こないだ買った向日葵はもうドライにしてしまったし、明日は早起きして病院へ行く前に向日葵畑でパワーチャージしてから行こうかな。 そんな事を思った。 今日は(も)早寝しよう。   2019年8月25日...

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手術の日

2018年3月19日  手術の日   手術台に乗って寝転んだら音楽がかかった。歌声はマリーナショウなんだけど、かかった曲目は坂本九の上を向いて歩こうだった。 思わず涙が溢れ出た。 九ちゃんスゲー。歌で泣かすなんて。って思っている自分もいた。 心配した看護婦さんが手を握ってさすってくれた。     程なくしてつけられたマスクから全身麻酔が効いて周りの声も聞こえなくなった。     名前を呼ばれて意識が戻った時に「無事終わりましたよ」と言われたけど、「えっ?もう終わったの?いつの間に?」というくらい一瞬の出来事のように感じた。     病室に運ばれグッタリしていた。 色んな管がついているのが痛かった。 病院嫌いで薬が嫌いで注射が嫌いな私にとっては自分の体に管が付いているのはけっこう屈辱的なことだった。 違和感というか異物感がものすごく嫌だったけれど動くと痛いからしばらくの間はとにかくじっとしていた。   まだ麻酔が切れていないのか、話すこともままならず、母や父がベッド脇にいるのはわかっているのだけど声が出なかったし身動きも取れなかった。   先生が母に「傷痕見ますか?」と聞き、見たいと言ったあとの母の第一声が「いや、すごい綺麗やわぁ、全然わからへんやん。私のとえらい違いやわ!」とケロっと言っているのが聞こえて、朦朧としつつもめちゃくちゃホッとしたと同時に、母に「言い方!」ってツッコミたい気持ちにはなった。笑     もちろんそんなこと出来ないくらいグッタリしていていつもみたいに突っ込めない自分がもどかしかった。 そんな事を思っていられるくらいの気持ちの余裕は生まれて来ていた。   体は辛いけど、気持ち的には術前よりかなり楽になっていた。   もちろん、回復して家に戻った後にこの日の母のあの態度に対してはしっかり突っ込ませてもらったけど。笑  ...

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入院当日のこと(ちょうど一年前)

2018年3月18日 入院 この日の午後に病院へ向かう事になっていた。 午前中に、前日に作っていたシェラカップ型の器の削り作業をした。(試作中だった。試作の流れはこちらへ)     手術をしたらしばらくは電動ろくろや土をこねる作業なんかが出来ないことがわかっていたから、とにかく退院後に帰って来た時に焼いたり釉薬をかけたり金継ぎをしたりして気持ちを紛らわせられる様にと思ってたくさん器を作っていた。   数日前にはコーヒーポットとドリッパーも完成させていた。   術後少しずつ電動ろくろを使えるようになっても、きっと大きなものや高さのあるものをすぐには作れないだろうから、何かカタチを残したいと思って大きめのものを作りたいと思い作ったのがコーヒーポットとドリッパーのセットだった。     とにかく手術を決意した時から入院の当日までろくろばっかり回していた。 心を穏やかにするためにろくろを回しているのに涙が溢れて手元が狂うことは何度もあった。   それでも久しぶりの大きな作品を作り上げて出発のギリギリまで陶芸をしていたら、病院へ向かうこの日、私の気持ちはなんだかとても晴れやかだった。   帰ってきたらこの器が乾いているはずだから焼き上げるのが楽しみにもなった。 そうやって退院後の楽しみをたくさん残して家を出た。     病院へ着き諸々の問診を受けたりしていた時に看護婦さんから好きな音楽は?と聞かれた。 キョトンとしていると看護婦さんは「患者さんがリラックスして手術を受けられる様に好きな音楽をかけるんですよ」と言った。 流石に手術でロックやR&Bだとお医者さんの手元が狂ったらやだな、と思って(笑)じゃあジャズで、と言ったら何かお気に入りはありますか?と聞かれたので、その時期にたまたまマリーナショウを聞きながら作陶していたこともあり(根暗か!)それを伝えた。 頭の中に浮かんでいたのはもちろんあのアルバム。   看護婦さんは若そうだったから知らなかったみたいでメモを取っていた。     _________ 今年はのんびりと鶯の練習する鳴き声を聞きながらのんびりと朝ヨガをしている。   去年のあの色々な辛さがまるで嘘の様だし、こんな風に過ごしていられる日々に感謝。   心がザワつか無いで居られるって幸せだなぁとつくづく思う。    ...

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とにかく轆轤をひきたいと思っていた

2018年3月5日 先輩へ連絡 以前話していたポップアップイベントの日程を決めたいと思った。 それを第一優先にして手術日程を決めようと思っていた。 けど、先輩は今回じゃなくてもGWでもお盆休みでもいつでも出来るから、まずは体が優先だから治してからにしない? ベストな状態で一緒に楽しみたいから、と返事をくれた。 涙が止まらず「甘えさせてください」と返信した。 まずは早く治してしまおう。 先輩の優しさがすごく沁みた。 そしてものすごくホッとした。   先輩のおかげで、私はポップアップイベントをゴールではなくてスタートにさせてもらえた。     2018年3月6日 病院へ Sさんのおかげでやっと心が定まって術式を決められた。 この日、手術日程も決めた。 それは昨日の先輩の言葉が早く治してしまって早く前に進みたいと思わせてくれたことも大きかった。 この日も母について来てもらった。 病院の空いている日の候補をいくつか聞いて、母のスケジュールと合わせて19日に手術をすることに決めた。 先生には「部分でお願いします。開いてみて思った以上に広がっていて切除部分が大きくて胸のサイズの左右差がひどくなるなら全摘に切り替えて欲しいです」と伝えたら「わかりました。出来る限り目立たない様に綺麗にします」と言ってくれた。     2019年 今年はと言えば、昨日も今日も黙々と轆轤をひいていた。   今月末に発売される媒体に掲載していただく器のシリーズを作って常設店舗さんへ納品したいというのがあってそれを中心に作っていた。   去年も黙々と轆轤をひいていたんだけど、去年は何を作るかはちゃんと定まってはいなかった。 術後、土をこねたり轆轤が出来ない期間があるだろうから、今のうちにとにかく作りまくっておこう。そんな気持ちだった。   退院して帰ってきた時に、素焼き、釉薬掛け、本焼き、金継ぎ修繕なんかのやるべき事をたくさん作っておこうと決めてとにかく土を触っている時間を増やしていた。...

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一応ホッとした

2018年3月4日  葉山の友人宅へ 以前の仕事で知り合ったMさんは家も近くて家族ぐるみでご飯を食べたりしてもいたけれど病気のことは話していなかった。     たまたま共通の知人がMさん宅に遊びに来ていて彼女から呼ばれたので母と一緒に行くことになった。 呼ばれた時は正直家でゆっくりしたいと思っていたのだけど、母は出来る限り普通でいなさい、必要以上に考え込むなと言っていて、せっかく声をかけてもらったんだから行って来なさい、と私を後押しした。     とにかく気持ちが滅入っていて1人でそこまで行く気力がわかず(歩いてたったの20分の距離なのに)母について来て欲しいと言ってバスで向かう事にした。 (その場で紹介されたyさんにはのちにとてもお世話になり某有名媒体で私のうつわを使っていただくことになる)     あまりにも私がグッタリしている理由を飲んだ勢いでバンバン話を進めて行く彼女にちょっと驚いた。酔ってるんだろうなぁ…と黙って聞いていた。 グズグズしている私の代わりにあっけらかんとそれに答えて行く母。     実は乳がんになっていたこと、手術をしなきゃいけないのに私が手術をしたくないと言い出した事なんかをみんなの前で母はさらりと言い出した。 (隠しているわけでもなかったけれど他人さんに話すのはパワーがいる話で、その都度平静を装うのがしんどいというのがその時の本音だった。)     でも受けなきゃ進行して死んでしまう。 手術を受けずに過ごしていた人のブログやネット情報を読んだらすごく辛そうだった。 それはやっぱり嫌だから結局のところ手術を受けるんだけど、体を切り刻むなんて怖いし出来る事なら手術をしたくないと言ったらMさんの奥さん(Sさん)が色々と諭してくれた。     私は彼女の言葉が無かったらいつまでもグジグジ言って逃げ腰だったと思う。 奥さんの言葉はとても冷静で、でも暖かくて、気持ちを尊重してくれているのが1つひとつの言葉の選び方から伝わってきた。     何故あんなにグズグズしていたのか?というくらい私はグズっていた。 そのくらい手術をした後のことが不安だった。(利き手が使えなくなって陶芸出来ないこと)     母の友人の乳がん体験者の看護婦さん、担当の看護婦さんにも支えられていたけれど、Sさんの言葉は私に冷静さを取り戻させた。 看護婦さんって素敵な人がなる職業なんだなぁとこの時心底思った。(Sさんも看護婦さん) “白衣の天使ってホンマやん”なんて思っていた。     とにかくこの頃の私は過去最も意気消沈していて覇気がなかったと思う。     本当にグッタリしていた時期で、多少のことでは目の下にクマが出来ることもなけりゃ、白髪になることもなかったさすがの私も、この時期は両方現れていて鏡で見た自分の顔を見てハッとした。     今年は治療で飲んでいる薬の副作用で気掛かりな子宮体癌の検査を受けに行った。 (先日の一年検診のCTでちょっと引っかかっていたので)     午前中に受けた検査では半年前にも診てもらった女医さんの問診で色々聞かれたことに答えて質問なんかもしたらバシッと答えてくれたからかなりホッとした。 内容がどうであれハッキリ言ってもらいたい。 私の性格的な部分もあるのだろうけどグレーな物言いほどモヤモヤしてしまうことはない。 とりあえず聞いた雰囲気的には子宮体癌ではなさそうで、かなり気が楽になった。 悪性腫瘍じゃなければまぁ大丈夫だろう、と。     けど、異常に大きな影が写っているからエコーでは確認しきれないしMRIを撮っておこうということになり、午後スポット的に空いていた時間に予約を入れてもらった。 スムーズに予約出来たのは良い流れだと思う。     またこれで1週間待ちとかだとモヤモヤが炸裂してしまう。 基本的にはそのモヤモヤした待ち時間が1番嫌だから…     結果は来週聞きに行くのだけど、多分大丈夫だと自分的には思っている。 MRIのあんなうるさくて狭い場所の中ですら、最後の方は寝てしまっていたし、多分そのくらい緊張感のない精神状態だったから大丈夫だと思う。 とにかく悪性腫瘍じゃなくてホッとした。 良かった…    ...

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2月27日は去年も今年も病院で検査結果を聞く日になった

2018年2月27日 母と共に病院へ   病状をお医者さんから説明され始めたけど、正直ちんぷんかんぷんで何を言っているのかわからなかった。   ネットとかで病気のことを調べたりしない様にと事前に看護婦さんから言われていたから本当に何も調べなかった。 というか怖くなるからあまり知りたくなかったのもある。   そのかわり手渡された乳がんのことが書かれた資料は全部読んだというか目を通した。 読んだのだけれど、なんというか自分ごととして捉えることがまだ出来なくて読んでもキチンと理解出来ていなかった。   自覚症状がイマイチ無くてピンと来ていなかったのもある。(結構なシコリの大きさだったのだけれど)   予備知識が少ないから、正直自分の症状がどんな感じなのか?がピンと来ていなかった。 質問は無いですか?と聞かれ、聞きたいことがあるのだけど怖くて聞けないでもいたし、理解が追いつかなかったからちょっとボンヤリしてしまってもいた。     結果的には手術をしなきゃいけなくて、もうこの日に手術日も術式も決めてしまわなければいけなかった。   私は先生に「もし先生の奥さんや娘さんが私と同じ症状で同じくらいの進行具合だったら、先生は全摘と部分、どちらをすすめますか?」と聞いた。 先生は一瞬、こいつはなにを…という感じで目が泳いでいたけど、「今田中さんに伝えたことと同じように言う。見た目の好みの問題だから」と冷静に答えた。   手術が早いに越したことは無いらしかったのだけれど、正直その場ですぐには決められなかった…   今までの私は決断に迫られた時も、結構色んな事をアッサリと決めて来たし(実はそうでもないこともあったけど周りからは簡単そうに決めている様に見えたらしい)比較的腹をくくることにも慣れていて即断即決できるタイプでもあった。(まぁ、そんな大きな決断をしたことが無かったのかもしれないけど) ほとんどのことはどうにかなると思っていたし、どうにもならないとしてもどうにかするしかないと思っていたのもある。     だけど、今回はすぐに決断出来なかった。 術式を決められず迷ってしまった。 どっちが良いかわからないというだけでなく、なんとなく手術を後回しにしたい様な気持ちになっていた。 考えたいから持ち帰って良いですか?とお医者さんに言ったら1週間後には返事を出せますか?と急かされた。 進行のゆっくりな癌だとはいえ1日でも早く手術した方が良いことには変わりない。と言われた。 仕方なく「はい」と答え病院をあとにした。     その日に京都に帰って手術時にまた来る予定だった母に、来週まで一緒にいて欲しいと頼んだ。 1人でいる方が落ち着いていられると思っていたけど、それはただそう思いたかっただけで、本当はものすごく不安だったんだと思う。 母にそばにいてほしいと心底思った。     普段の私は1人でいることが比較的好きなのだけど、この時はさすがに1人ではいられなかった。 不安感というか恐怖心なのかなんともいえない不安定な気持ちになっていた。   それでも毎日陶芸だけはしていた。 ろくろを回していないと要らぬ情報を携帯で調べてしまうし、とにかく土を触っていたくてその時間を増やした。 土を触っていると少しでも気持ちが和らいだしフラットになれた。     翌週に返事をするまでの1週間は気持ちがずっとグラついていて何度も何度も迷っていた。(この1週間の間に色んな人から助言ももらい、その都度気持ちがフラフラとして決められなかった)   ほんのちょっとしたことで迷ってしまっていたし、“どうして有識者であるお医者さんが決めてくれないんだろう…”とも思っていた。   考えなきゃいけないのだけど考えたくもなくて自分のことなのにどうでもよくなっても来た。   手術なんてしないでこのまま(なんの不自由も今はないんだし)ストレス無く暮らしていれば治るんじゃないのか?とも思った。   眠れなくて、手術をしないでいた人のブログなんかを夜中に読み漁りだしてもいた。   他にも何人かの友人から色んなネットの情報が届いた。 けれど、何が正しいのか?が全くわからなくて理解出来ていないから色々届くフンワリとした情報はどんどん自分を迷わせていった。   でも手術はしないといけない。 ずっとモヤモヤしていて、逃げる様にろくろを回していた。     母の時は術後に土を触るなとお医者さんに言われたと言っていた。 私はそこにすごく引っかかっていて【土を触れなくなるのがすごく嫌】だった。   今の自分から陶芸が無くなったら私には何も無いじゃ無いか?という焦りや苛立ちがあった。 なんで私がこんな目に合うのか?とやっぱり思ってしまった。 100歩譲ってそれ以外の事はもうホントにどうでもいいし忘れよう。 だけどせめて陶芸だけは続けさせてや!そんな気持ちになっていた。   陶芸が出来なくても大丈夫だよ!その時はその時だから!と励ましてくれる友達もいたけれど、そんな日々をどうやって乗り越えれば良いのか?の想像がその頃は全くつかなかった。     色んな気持ちが入り交じって手術をするのがものすごく怖くなってしまい、「手術はしない」と私が言いだしたら母は泣いた。 呆れていたのかもしれないし怒りの頂点に達していたのかもしれない。 なんでそんなことを…とただ泣いていた。 泣きたいのは私やわ!と泣きながら母にあたった。     そんな風に日々気持ちがグラつき激しく落ち込んだり泣いたりして1日の中でも気持ちは揺れっぱなしだった。 【自分でも決められないしお医者さんに選択を委ねることもできない】という状態にフラストレーションが溜まっていた。 こんなにも自分は決断力がないのか?と我ながら呆れた。選ばなきゃいけない二択はどっちも選びたく無い!そうとしか思えなくなっていた。     1年後の今日は1年検診の結果を聞きに来た。 いくつか気になる点はあったものの胸は両方とも再発しておらず、肺や肝臓への転移も見られ無かった。   ホッと一安心する間も無くお医者さんから「子宮筋腫が異常に大きくなりすぎているから婦人科検診を受けるように」と言われた…   一難去ってまた一難… 心配ごとがなかなか消えてくれない。 半年前にも色々と心配で婦人科検診を受けてはいた。(薬の副作用で子宮体癌になる可能性が上がることがわかっていて、異常に酷い鈍腹痛や腰痛、その他諸々が気掛かりで受けた) その時点で既に筋腫の量がちょっと多いこと、大きめのものが3つほどあるから半年後にまた必ず検査を受けるように言われていた。(ことを忘れていた。というか筋腫がチョコチョコあるくらいは普通だし…)     けど、今回はその大きさが異常だとのこと… 見せられたCTでは全面的に写っているモノを指して先生が「コレが筋腫。おっきいでしょ。赤ちゃんみたいに」って言うんだけどその例え、出産経験のない人間には全然伝わらない…ってホントに思った。けど、えっ?ソレ?というくらいの大きさの物をお医者さんは筋腫だと言った。 子宮全体とほぼ同じ大きさですけど…その影…と思って絶句してしまった。     今日すぐに検査を受けてくれば良かったのだけど、前回と同じ女医さんが良いと思って日を改めることにした。 正直、色んな検査の中で婦人科検診は嫌いな検査の1.2を争う。 もう半年経ったのか…と思うとゲンナリする。 おおごとでなければ良いのだけど…   出来ることなら漢方で緩やかに治せる程度であってほしい… もう手術はしたくないし、薬もこれ以上飲みたくないなぁ…   ただ笑って過ごしていたいだけなのに…   ネットで要らぬ検索をしてしまわないように今日もろくろを回そうと思う。時間がある限り、作陶する。   今の自分に必要なのは土に触れて心のざわつきを静めることだと思う。...

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母が逗子へ来た日

2018年2月25日 昨年のこの日は数日後に病院へ結果を聞きに行くため、前入りで母が来る日だった。   その前にS先輩が娘さんを連れてウチまでわざわざ遊びに来てくれた。   春の桜まつりの時に器のポップアップイベントをさせてもらえるという事で打ち合わせを兼ねて器を見に来てくれることになっていた。   メールでうまく伝えるのも難しかったこともあり会うまで病気のことを先輩に伝えられずにいた。   せっかく楽しみにしているイベントなどの楽しいことだけを考えていたかった。   もし手術をしなきゃいけないとしても、手術前にたくさん作ってイベントが終わってから手術すれば良い… そんな風に思ってもいた。   というか手術をするかしないかもどうなるか?も検査結果が出るまで先が何も決まらない状態だったから予定を何も決められないでいた。   会ったときに病気のことを先輩に話した。 昔からたくさん喋る感じの人ではなくて、だけどとても深い優しさと芯があるタイプの人で、めちゃくちゃお洒落でカッコ良い女性だ。   私が辛くならない様に先輩が言葉を選びながら話してくれているのが伝わって来た。 そして応援するとも言ってくれた。 そういう先輩の言葉がものすごく私を支えてくれた。     この頃は病気に対する悲しさより、たくさんの人たちの優しさに感動してよく泣いていた。 私はものすごく恵まれていて幸せなんだと本当に思った。     夕方、母は父が運転する車でやって来た。 色んな食材やらなんやらを運んで来てくれた。 父は私のために家庭菜園のプランターやら土やら一式セットを買って来てくれた。 父はそれらをうちのベランダにセットして京都へトンボ帰りしていった。 疲れるだろうし泊まっていけば?と何度か言ったのだけど帰っていった。 多分、私の顔だけ見に来たんだと思う。 言葉が足りない人だけれど父はとにかく優しい。   だからなんだかんだ言いながらも母はずっと一緒にいるんだと思う。 自分自身が結構な年齢になるまで、なぜ母が父とずっと一緒にいるのか?に疑問を持っていた時期もあったけれど(笑)最近になってようやくわかって来た気がする。     一年後の現在、2019年の2月末は1年検診を受けて結果を聞きに行く。 年明けごろからずっとソワソワしていて検診に対してのちょっとした不安から来る緊張感で気持ち的にはあんまり落ち着かない。 なので友達にも出来るだけ会うようにしたりスキーにも出かけたりして、笑う機会を増やす様に心がけている。 去年の今頃はたくさんの人たちの優しさに触れてよく泣いていたけど、今年はたくさんの人たちと笑って過ごせている。 そんな日々をつくづくありがたいと思う。 これからもずっとずっと笑って過ごしたい。...

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一年前は都内で 今年は逗子で222

2018年2月22日 この日はずっとお世話になっているZさんとAさん、そしてすごく久しぶりにお会いするKさんと4人で都内のレストランで食事をした。 Zさんには悪性だったこと、今色々と検査をしている最中だということなんかも話していた。     Zさんはいつもカッコよくてあったかい。ああしろこうしろ的なことは一切言わないし強要したりもしない。 だけど“頑張りたいな”と思わせてくれる様な言葉をさりげなくかけてくれる。 前向きに考えようとする私をとにかくずっと急かさずに応援してくれていたし、今もとてもお世話になっている。     この日も久しぶりに美味しいご飯を食べた。 最後のデザートにはメッセージを添えてくれた。 You'll be allright. you can get it over. 泣きながらチョコで書かれたメッセージも食べた。 この日、Zさんは忙しい仕事の合間を縫って神社で御守りを買ってきてくれていた。 【勝】と焼印の入った木の御守り。 よく見る感じの健康祈願の柔らかな正絹の布モノじゃなくて、この強そうな御守りがなんだかすごく嬉しくて仕方が無かった。 コレを私のためにわざわざ買いに行ってくれるZさんの気持ちがとても嬉しくて私は帰宅後お財布にこの御守りをくくりつけた。 お財布はいつも大切に持っているものだし無くさない様にしているものだから、と思って。 レジで支払いをする時はちょっと恥ずかしくもなる。 多くの人の目線はぶら下がっている財布とのサイズバランスが悪い木のチャームに釘付けだから。笑 でも、この御守りは私を守ってくれている気がする。     私が初めて社会人として働いた会社で出会った先輩たちは、辞めて十数年と経った今でも変わらず良き先輩でステキな人たちばっかりだ。   20代をあの会社で過ごせたことは私にとってとても大きな宝ものになっていて、40を超えた今でもあの頃の様に可愛がってもらえる事がとてもありがたい。    ...

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